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超久しぶりに真面目な考察を。

さて、ここ最近、ラノベの企画とかアニメの話とかばっかりなので、たまには真面目な考察を一つ、してみることにした。

・・・・・・まあ、若干なりとも、ラノベと関わってはいるんだけどね。

メッチャつまらないかもしれないので、頭が痛くなる話が嫌いな人は素直にスルーした方が身のためかも。






偽善、という言葉がある。

意味としては、善人らしくありながらも、心の奥では・・・・・・というもの。

意味としては名詞っぽいが、今回は動詞として扱うことにする。
すなわち、「親切」あるいは「善行」の偽者を、偽善とすることにする。
(なお、偽善を行う人を偽善者とする)

さて。

まず、この考察にあたって、私が何を言いたいか、最初に提唱してみることにする。

人間間における「純粋な善行」は、狂気なのではないか。

さて、順を追って説明してみましょうか。

まず、人が人に親切をするのには、たいていがなんらかの意味を持つことが多い。
人を助けて満足するとか、見返りを求めるか。あるいは「ありがとう」と言われるのが楽しいとか、そんな人もいるかもしれない。

だが、極端な話、これらは全て「偽善」なのだ。

善行とは、人に何か善いことをする、というもの。
すなわち、そこに付加価値は存在しないものであり、上のような付加価値が存在してしまった場合、それは必然的に偽善となってしまう。なぜなら、それは善行に見せかけた、付加価値を持たせる行動なのだから。

何の見返りも求めてない、と本人が主張したところで、そこに何らかの、「人を助ける以外の感情・目的」が存在すれば、それは純粋な善行ではない。

しかし、純粋な善行など、はたして存在するのか。

ライトノベル「Missing」の登場人物、空目恭一のセリフの中に、興味深いものがあった。
その一部を抜粋して、紹介する。

「人が”純粋”と呼ぶのは、あくまでも一見するとそう見えるものであって、本当に純粋なものではない。無垢のはずの幼児でさえ、自分が幼児である事を利用し、計算を働かせる。人間は決して無垢になれない。生まれた時から、それは有利に生存するためにプログラムされているものだからだ。そういうものを卑しいと教えたならば、計算は抑圧されるだろう。だがそれすらも、本当に純粋なものではあり得ない」

その後、純粋という言葉に関する価値や、人を純粋と呼ぶのは、相手を格下に見ていると聞こえる・・・・・・といった、ちょっとばかり暴論が続き、最後に。

「もし日下部(登場人物)の純粋さが、無知でも無思慮でも欺瞞でもない本物だとしたら、それは問題だ。そのどれでもないとすれば、それは”狂気”に属するからだ」

と、締めくくっている。

私はこの言葉に、大いに共感を覚えた。
確かに、純粋というものは計算されて作られた結果の一つ、という考えは賛同できる。心の底から無になるなど、ある種の病気である。

そして、この論を正しいと考えれば、人に対して「純粋に」善行を向けるのは、ある種の狂気に属するのではないか、と私は結論づけた。

さらに、純粋でない善行は、すなわち善行以外の付加価値を持っており、それはいわば「偽善」となってしまう。善行に見せかけた、付加価値が存在する行動なのだから。

そういった意味では、この世界に善行など存在せず、人がそう思うものは全て偽善である・・・・・・と考えることもできる。
「人を助けたい」と思うのならまだ善行の領域だが、「感謝されたい」「ありがとうと言われたい」というのは個人的思考。よって、人に自分の満足を押し付けているようなもの、ともとらえられる。
「見返りを求めている」など最たるものだ。それは自分に対して有利に働くようにしている、偽善以外の何者でもない。

・・・・・・少しばかり暴論となってしまったが、どうだろうか。

この結論を出して、私が言いたいことがあるとすると・・・・・・善行と見える行動を何度も取っている人間は、果たして本当にいい人なのか。
そういったパフォーマンスである可能性も考えられる。己の地位向上のために、わざとそう見せかけている可能性だってある。
それはすなわち「偽善」であり、歓迎されるものでもなければ、崇高すべきものでもない。

―――さて。これを読んでくださったあなたは、どう思うだろうか。
もしよければ、何か一言いただきたいものである。私はこういったことで討論するのが大好きだ。






・・・・・・ただし。

勘違いしないでもらいたい部分が、一箇所ある。

私はこの世の善行は全て偽善とは言ったが、その偽善を否定していない。
むしろ、偽善は好きだ。


そもそも、私の行動のほとんどが「購い」という自己満足、すなわち偽善であるゆえに、偽善を否定することはできない。私そのものがどちらかというと偽善者なので、別に偽善だからいけないというつもりはない。

それに、偽善と気付かれない行為は、気付いていない人から見れば立派な「善行」だ。
私は善行ではないと思うかもしれないが、他の人から見れば完全なる善行、という考えもできる。

この辺は、個人的な主義主張、あるいは価値観の相違から、異なって見える場合が多い。

ただ、私はここで、私の考察を発表しただけである。
別に、全てを否定しているとか、そんなのではないことを知ってもらえると助かる。
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[ 2009/10/01 21:23 ] 日常生活 | TB(0) | CM(4)

No title

まぁ、なんというか、、深いね。
純粋さが本物であれば、それは”狂気”である。って所で、
ある小説の中で(知ってるかもしれないけど)、ただみんなが笑っていられればそれだけで良い。という、『笑顔中毒者(スマイルジャンキー)』を思い出した。
彼は、「ハッピーエンドのためなら手段を選ばない」というような人で、
ある意味、これにあてはまるな、と思ったね。
うん。深い。

なんかgdgdですいません。
自分もこういうことを真面目に考えるのがちょっと好きですねw
[ 2009/10/01 22:53 ] [ 編集 ]

No title

こんばんは。コメントありがとうございます。

誰だったかなぁその人・・・・・・どっかで見たことがあるような気が・・・・・・記憶の奥底にあるのでいまいち分かりませんが、ええ、確かにその人なんかは当てはまるかもしれませんね。
ある意味、「笑顔が見たいから」あるいは「ハッピーエンドにたどり着いたいから」と『純粋に思っている』という点では、狂気かもしれません。

あはは、たまには私も、真面目な考察をしたくなるものです。
そんなお年頃。
[ 2009/10/01 22:55 ] [ 編集 ]

No title

お久しぶりです;;
なんか更新してないのにチョクチョク見てきて貰ってるみたいで…更新しないでスミマセン…(ノд-。)またチョクチョク更新しますのでドウゾヨロシク。。

ちなみに深い事かんがえると泥沼にはまって結局何を考えてるのかわからなくなる、あまもーデス;;
[ 2009/10/02 20:07 ] [ 編集 ]

No title

こんばんは、あまもーさん。お久しぶりです。
じゃまた遊びに行かせていただきますね。

何か考える時は、やっぱり最初に何を考えていたか、しっかりと軸を決めてから展開すべきですよね、持論とかを。
最初の軸がブレると、私でも訳の分からない考察になってしまいます。
[ 2009/10/02 22:34 ] [ 編集 ]

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